三沢市
三沢市というと、正直幼い時の記憶は、ほとんどない。というのも、東北本線「古間木」の駅名の記憶が、そのなんとなく珍しい名前の印象とともに強く、三沢市になり「三沢駅」になって、はじめて「三沢」を意識したといってよいからだ。
私の最初の三沢の記憶は、米空軍基地に招待された祖父・岩男に同行した時で、小学校3年か4年だつたはず。基地内や街の記憶はほとんど残っていないが、「陽気なアメリカ人」の振る舞いに、これがアメリカの人たち、軍人なのかと、大げさに言えばカルチャーショックを受けた。そうした、日本離れした雰囲気が、現在のアーケード前の再開発地を含め独特の魅力を持った街になっていると思う。
三沢は、もともと祖父・岩男との縁のある土地だ。というのも、三沢市の発展要因と言える米軍基地の基礎となった飛行場建設、即ち戦前の日本海軍航空隊誘致の中心人物の一人だったからだ。
当時、岩男は大湊町長(現むつ市の一部)を経て県議会議員になっており、大湊町長時代の”人脈”から、北の空の守りの地として海軍航空基地を大三沢村(当時)に誘致した。
青森県の中では、冬期、雪が少なく、飛行可能な日が多いという気象条件を知っていたからだろう。その条件が、占領終了後も米軍が航空基地として存続させた要因になったと思う。祖父の航空基地としての選定の目は確かだったと言える。勿論、ソ連(現ロシア)との冷戦が始まり、極東の航空基地として、戦略的にもうってつけの位置と気象条件がそろっていたからだろう。また、「象のオリ」と呼ばれるアンテナなど、対ソ通信情報の傍受基地としての地理的な条件もあったようだ。沖縄の嘉手納基地と共に、現在、在日の二大米空軍基地としての役割を果たしている。
そして、その米空軍基地が、戦後の三沢発展の基礎になったことは紛れもない事実。そして、それが一種独特の雰囲気の街にしたのだと思う。
政治的には、もう故人となったが、祖父の代からの知人で父・竜男が最初の参議院選挙に立候補した際、議員として応援したわずか2人のうちの1人、H市議の街でもある。このほか、何人もの方々に、祖父、父の代から応援していただいている、山崎家には温かい街である。特に私自身、故人となられたが、前市長と前県議のお二人には本当にお世話になった。その関係もあり、現種市市長と小桧山県議とも親しくさせていただいている。
ドル下落以来、三沢の街に米軍の落とすお金が激減、かつての賑わいを知る人には信じられないほどの状況となり、県下のシャッター街の代表として知られることになったのは、とても残念なことだ。
しかし、米軍関係者と市民との交流はさまざま行われており、他にない魅力ある街になっている。昨年は、初の太平洋無着陸飛行に成功した、ミス・ビードル号のレプリカ機の展示飛行も行われた。沖縄の基地とは異なる市民と米軍との良好な関係は、関係者のご苦労の成果だと思うが、本当によくやっていただいている。
今回の大津波では、三沢市も、痛ましいことに海岸部で死者が出るなど、大きな被害が出たが、その際の米軍の復旧への協力も目ざましいものがあったと聞く。また、今回の福島原発の事故で影がさしているが、イーターなど、世界の最先端技術施設の人的物的ベースキャンプとしての将来性も期待されているなど、国際性豊かな米軍と共存共栄の街の一層の発展を期待している。
(山崎 力)
|