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 むつ市

むつ市は、いわば政治家三代・山崎家の原点である。後年、県知事をさせていただいた祖父・岩男が、"伝説"によれば、旧制青森商業学校(現・青森商業高校)の教師を、政治活動の故をもってクビになったが、捨てる神あれば拾う何とかで、戦前の昭和7年、旧大湊町の助役になり、翌年、町長になったのが、政治の世界への出発点だった。

私が小学生の時に大湊に行った際に、泊まらせていただいた家で産院をされていた女主人が、当時知事だった祖父のことを「町長さん、町長さん」と言い、「つい言ってしまうの」と言い訳していた記憶が、鮮明に残っている。それだけ町民に慕われていたと同時に、岩男のむつ下北に対する思い入れも強く、その"証拠"が、釜臥山頂近くにある岩男の胸像になっている。また大湊小学校卒の父・竜男にとっても多くの幼ななじみが住む、心の故郷になっているようだ。

また当時の大湊は、旧帝国海軍の要港部があり、北方領土周辺を含む「北の守り」の中心。  現在も海上自衛隊の全国五つの主要港の一つと、天然の良港を生かした姿は変わらない。その関係で、父は戦争中海軍を志願し、音楽やカメラなどの当時ハイカラ好きもその影響かもしれない。 

私自身にとっては、記憶のない幼年期に行っている(写真がある)ほかは、小学4年生の時が最初だった。最終列車で途中灯りの乏しい暗い中を祖母と2人で大湊に着き、翌日か翌々日、 祖父も加わって海上保安庁の巡視船で青森に帰ったが時化で初めての船酔いをした経験をした。

大湊町は隣接の田名部町と合併したものの、新市名決定が難航し、全国初のひらがな名の「むつ市」になったことは、地元も年配の方々には周知のことだ。大学時代に行った時には、両町の中間の、当時放置された形だった旧大湊ホテルが近くにあるだけの何もない所に、新市役所庁舎がポツンと建っていて、政治の妥協の産物とはいえ、不便なことだろうと思ったものだ。 それから30数年経った現在では、市街地化が両側から進み、程よい場所に市役所がある様に感じられ、結果オーライになっている。

合併後初代むつ市長の杉山勝雄さんは、祖父の青商時代、陸上部監督と主将の関係。以来の付き合いで、息子さんの杉山粛現市長には、むつ下北地区の後援会会長をして頂いている。 政治の世界では、いま全国的に市町村合併が焦点になっており、またエネルギー基地としての下北半島が注目されているが、その中核として、むつ市の役割は、益々重要になっていくと思う。

山崎力

 1期目の当選から2年目位 の頃の話です。下北・大畑での葬儀の話を聞きました。

『お世話になった人のお父さまだもの、私伺う。』前後左右も、後先も考えず決定。 早々喪服に着替え、6時のお通夜に間に合うように特急はつかりに乗り、「野辺地」で大湊線に乗り換え、「むつ」到着間近で、漸く、はたと気づいた。

「むつ」から「大畑」まではどうやって行くのだろう?心配で胸がドキドキしてきた。 通りかかった車掌さんに、どうしたら「大畑」に乗り継ぎが出来るのか、泣きそうになって聞いた。後で分かった事だけど、その聞き方が、余りに頓珍漢だったらしい。

むつ市の「下北駅」下車。辺りをキョロキョロ見回していたところ、見知らぬ夫人が近づいてきて、『もしかしたら、Hさんの葬儀にいらしゃるのではないですか?』

彼女は大畑の方で、今日の葬儀のHさんのお宅と親しく、ご主人も葬儀の手伝いに出ていて、ちょうどお寺にご主人の車を取りに行くところだったとか。

青森からの通夜の客が来ても可笑しくない大きな葬儀の筈だから、電車の中で私の喪服に目を留めていたらしく、その挙句、「大畑はどこ?」なんぞ大声張り上げていたので、親切にも声をかけてくれたのだそう。

『帰りは、お泊りですか?』と聞かれ、『帰ります。』と答えたら、ビックリされた。 何故なら、「大畑」発の最終とやらは、通夜に出ていたんじゃ「下北駅」で乗り継ぎ出来なくなり、青森には戻れなくなるらしい。そんなことも調べずに、お通夜に来ちゃっていたなんて…。(涙)

兎にも角にも、一緒の車に乗せていただいて大畑に向かう途中、問わず語りに…。 結局、喪主にご挨拶をさせて頂き葬儀の途中で抜け出して、「野辺地」に直に向かって無事「特急はつかり」に乗車出来ました! ホッ。 私の人生は、殆ど間一髪、綱渡り。 楽々人生じゃないけれど、どこかでちゃんと助けられるように、なっている。 この日は、大畑の『村林さん』。 ご恩は、忘れていません。
山崎晃子
写真「梵珠山のキクザキイチゲ」
5月6日 津軽・梵珠山(ぼんじゅさん)にて