前回から一か月以上、何も記してきませんでした。この間、書くべきものがなかったのでは勿論なく、それこそ目白押しにテーマがありました。
前回触れた衆議院青森一区での候補者公募や、その後の自民党大惨敗になった総選挙をめぐる動き。あるいは、その結果判明後の動きなど、それこそ短いものなら十本以上書ける内容がありました。それが書けなかったのはまさにプライベートな理由でした。それも私自身の体や意識の問題ではなく、まずは父の死でした。
お盆の最中の8月15日、半年近い入院生活ののち、父は87歳で永眠しました。参議院議員4期、国務大臣環境庁長官の経験者でしたから、総選挙目前の時期的な問題があり、県政界など、政治関係者が出席される可能性があるので葬儀は身内だけのいわば密葬のかたちをとり、一般の方々においでいただく「偲ぶ会」を総選挙後(9月6日)にすることとしました。
ところが密葬の終わった翌日、こんどは母が倒れ、加えて妻も入院せねばならず、といったことが重なって、私自身も、十分な選挙応援ができない状況になってしまいました。 選挙後も後始末に追われ、本来の活動に戻れないまま時間が過ぎて現在に至っています。
こうした事情もあり今回は偲ぶ会のパンフレット用に私が作成した父の経歴を紹介させていただきます。
山 崎 竜 男 略 歴 |
| 大正11年(1922年)5月5日 |
当時中央大学生の岩男(後大湊町長、衆院議員、青森県知事)とイマの長男(1人息子)として、東京府野方村(現東京都中野区野方)にて誕生 |
| 大正15年 4月 |
岩男 青森商業学校(現青森商業高校)奉職を期に青森市に |
| 昭和 7年 6月 |
岩男 大湊町(現むつ市)助役、町長就任に伴い大湊へ。大湊小卒業、東奥義塾進学後、聖学院中(東京)へ転校 |
| 昭和18年 3月 |
中央大学予科卒業。法学部へ進学するも同年12月、学徒出陣(海軍兵科第4期予備学生) |
| 昭和19年12月 |
海軍電測学校卒業任海軍少尉。後同校予科練教官を経て、軽巡洋艦酒勾勤務 |
| 昭和20年 6月 |
岩手県種市村(現洋野町)材木商工藤仁太郎・ユリ四女楫子と結婚。同年9月、終戦により復員(ポツダム中尉) |
| 昭和21年 4月 |
青森医学専門学校(現弘前大学医学部)入学 |
| 昭和22年 5月 |
長男力誕生 |
| 昭和26年 3月 |
同校卒業。東京慈恵会医科大学病院でインターン |
| 昭和27年 5月 |
医師国家試験合格。その後産婦人科医として、都南病院(東京都品川区)、新川橋病院(川崎市)などに勤務 |
| 昭和29年11月 |
次男竜弥誕生 |
| 昭和35年 7月 |
医学博士 |
| 昭和39年11月 |
父岩男死去(63才) |
| 昭和40年 7月 |
参院選青森地方区に出馬、落選。同年10月、船田中衆議院議員(議長)秘書 |
| 昭和42年 1月 |
衆院選青森1区に出馬、落選 |
| 昭和43年 7月 |
参院選青森地方区に出馬、当選。以後連続4回当選 |
| 昭和47年 7月 |
行政管理政務次官 |
| 昭和51年 1月 |
参院文教常任委員長 |
| 昭和53年 3月 |
初孫陽久誕生。以後息子2人に計6人(3男3女)の孫に恵まれる |
| 昭和58年12月 |
自由民主党両院議員総会長 |
| 昭和60年 5月 |
母イマ死去(85才) |
| 平成 元年 6月 |
国務大臣環境庁長官 |
| 平成 3年 1月 |
青森県知事選出馬、落選。政界引退 |
| 平成18年11月 |
叙勲 旭日重光章 |
| 平成21年(2009年)8月15日午後8時5分 |
多臓器不全のより永眠(87才)。正四位に叙さる |
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戒名 |
大旭院殿日観龍成大居士 |
特技 |
ハーモニカ(全日本学生コンクール2位)、剣道三段 |
趣味 |
写真、8mm映画撮影、音楽鑑賞 |
この経歴作成のためアルバムなど父の古い資料をひっくり返したりしましたが、肉親としてだけでなく、学徒動員を経験した世代の一人の人間の人生とその時代を振り返ってみることに、結果的にはなったと思っています。
鳩山新内閣の発足後、これからどのような国政運営が行われるのか、まずはお手並み拝見です。そしてこのホームページの文章の方は決してやめたわけではなく、今少し、山崎家内の整理に時間がかかり、次回書く心の余裕を持ってからと思っています。まずは、長期間の原稿の出せなかったお詫びと、現状報告をさせていただきました。(2009年9月16日記)
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