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民主鳩山新政権スタート(2009年10月) 

久しぶりに筆を執ります。この二ヶ月、これほど数多くの政治ドラマが繰り広げられたのは過去に例のないことで、それは現在も進行中です。発足から一ヶ月、鳩山新政権からたて続けに新政策が打ち出されている現状は、確かに戦後のGHQによる占領政策や、古くは明治維新に次ぐものと言ってよいでしょう。紛れも無く8月30日の総選挙の結果です。55年体制成立後、短期間の細川内閣はありましたが、事実上初の本格的政権交代ですから、新政権の高揚感が伝わってきます。マスコミの報道を見ても表面上は出足順調というか好意的なものが多く感じられます。内閣支持率も高水準で推移しているようです。もっとも、報道機関によって政権への温度差が際立つのも、今政権の特徴でもありますが。

勿論、26日に始まる臨時国会の焦点、補正予算や来年度予算の概算要求など、個々の問題は数多く、それぞれ私なりの意見はありますし、そのうち書きたいと思いますが、今回は別の視点から新政権に対する問題点を指摘したいと思います。

ボトムアップからトップダウンへ

従来の政権では、個々の与党議員がいわば地元支持者や支援団体、自治体などの要望を段階を踏んで吸い上げ、そのための制度(立法)を官僚に協力してもらってつくり、その運営に当たる官僚と“調整”して地元に成果(予算)を還元する形でした。いわば下からの積み上げ式(ボトムアップ)でした。それが新政権では、政治家(政党)が立法は勿論、予算の中身まで官僚をさしおいて自分たちで作り、上からの大臣からの命令で実行させる方法(トップダウン)に替えた事が最大の特徴です。その錦の御旗が国民に支持されたマニフェストというわけです。

一概にどちらが正しいということはできません。確かに従来のやり方の中で、官僚(行政)に任せすぎになり、族議員と揶揄(私には不当な言葉使いだと思えますが)される議員グループと官僚との談合で政策(予算)が決まり、その結果として、天下り先の肥大化や無駄と称される不要不急の公共工事を放置してきた――面があることは否定しません。私自身の体験からしても、変に官僚とぶつかるより知恵を出してもらい、予算面や運用面で便宜を図ってもらったほうが――と思ったことが正直あります。特に地元が絡むとそうです。要望してきた人たちの顔が浮かぶのです。

こうした、周囲を気遣って根回しをしたりする旧来の仕組みが、実は日本人の性格に合っていて、成果をあげて支持されてきたことは否定できないと思います。ところが少子高齢化社会とグローバル化の到来、さらに言えば数字上の好景気持続も、多くの国民にとっては実感できないまま世界的な大不況に遭遇して、日本社会に閉塞感が広まった背景の下、政権運営の不首尾も重なって、自公連立政権への信頼感が喪失し、総選挙での大惨敗に至ったと思っています。さらに自民党が一昨年の参院選での惨敗の教訓を総括、反省できていなかったことへの有権者の反感と絶望が、直接の敗因かもしれません。

ともあれ、政権奪取に成功した民主党の姿勢は、逆のトップダウン、彼らの言う政治主導です。官僚に対し彼ら政治家の意向を、これまでの“慣習”やしがらみにとらわれずにやらせる、もっといえば自分たちでやる、抵抗すればクビといった感じです。トップダウン自体は何も目新しいものではありません。小泉総理時代のやり方もそういえます。ただ違いは、小泉総理の場合は主に身内の自民党に対するもので、それも政策的には郵政民営化など一部に限られたものでした。方針を指示するだけで官僚の仕事に立ち入ってと言うことは余りありませんでした。そして小泉劇場といわれたようにその“ふるまい”が大向こうをうならせたことは事実ですが、基本的に組織体としての官僚制度はそのままでした。

民主党はこの大転換を、政権交代の目玉として自負しているようです。確かに大きな実験であり、もし成功すれば評価するに値するものです。果たしてうまくいくでしょうか。

民主政権の危うさ

鳩山新政権の出だしについて、マスコミは興味津々、温度差はあるものの対米外交や財源問題、あるいは八ツ場ダムの本体工事中止などに見られる地元住民自治体の意向無視への懸念を指摘しつつ、まずはお手並み拝見の姿勢です。大臣・副大臣・政務官が各々張り切って自己の“思い”を打ち出す現状の下で、どう政権総体として政策をまとめるのかが見えないという点もあるのでしょうが、むしろ私には(プロの目からはいかがかと思う点が数々あるが)一般国民の評価が見えない、いやまだまだ評価が高い、それを先走って警鐘を鳴らすのはどうかという躊躇がうかがえます。というより、従来の常識ではとても無理な大風呂敷を広げ、「精一杯努力したがここまでしかできませんでした、御免なさい」となったとき、国民が「公約違反だ、だまされた」と非難するのか、「まあ仕方ない、よくやったほうだ」と納得するのかが読めないといったほうが正確かもしれません。

ただ今回の私の問題意識はその点にあるのではなく、多少硬くなりますが、一つはわが国の制度上で立法府と行政府との関係、役割分担はどうなるのかという根本問題です。この問題を論じると長くなるので詳述はしませんが、例えば政権交代ごとに法律を替えるだけでなく、行政施行の細部に政治家が関与することになると、行政の整合性や安定性が損なわれる恐れがあります。その点を指摘する官僚を抵抗勢力として排除することになると大変な事態になりかねません。自ずと限度があるはずです。念願の政権交代を果たした高揚感からだとは思いますが、新政権にはその点への配慮が希薄な感じを受けます。軍部に破滅への独走を許した戦前の政党政治、政権交代への反省が、そこには必要だと思います。

これに関して忘れられない思い出があります。駆け出しの新聞記者時代、山形に転勤になり、挨拶を兼ねて山形警察署の署長室を訪ねた際のことです。ちなみにその時の署長は新任の巡査時代、時の東條首相を怪しい者として誰何(すいか)した逸話の持ち主として関係者の間では有名な人でした。戦時中お忍びで山形に来た際、庶民の生活はどうかとゴミ箱をあさって歩いていたそうですから、呼び止められるのはむしろ当然、若き日の署長にも何のお咎めも無かったそうです。それはともかく、署長室には歴代署長名が書かれた名簿が掲げてあり、見ると一代おいて全くの同姓同名の署長名があるのです。「別人ですか、それにしても珍しい」と尋ねると、「同一人です」と署長。「もっと異例ですね。その間どこにいたのですか」と私。「刑務所です」と署長。つまり前任のときの総選挙で政権交代があり、政権についた政党側から選挙干渉妨害をした憎き奴として刑務所行き。ところが収監中に次の総選挙が行われて、また政権交代。その結果、めでたく刑務所から山形警察署長に復帰したというわけです。戦前のわが国では、軍部の台頭前、選挙による政権交代があり、末端の人事まで左右していたのです。目からうろこが落ちるという表現がありますが、私にとってその一つの事例でした。地方自治体の政権交代でかつては似た話をよく聞いたものですが、いまだにあるのかもしれません。

もう一点は、前記にも関連することですが、細部に詰めの無いまま頭に描いた理想像が先行して、地元や担当者の声を後から聞くという姿勢です。八ツ場ダムの事例に限らず「事前に何の相談も情報もなかった」という自治体や住民の声が報じられていますが、トップダウンの弊害の典型例です。その際に最も戸惑い困るのは現地の当事者です。私なら「どこが地方重視だ、地方分権だ」と悪態のひとつもつきたいところですが、民主党には地方組織が全般的にまだ不十分で、地元の声の吸い上げに問題がありそうです。その意味でも、地方自治体の、特に首長の評価が今後どうなるかが注目されます。まさか財政再建を無視しての地方交付税の大幅増額や札束、掴み金で事を収めようとしているとは思いたくありませんが。

地方や現場の困惑

地方交付税といえば、無駄の象徴、公共事業への依存度が高いのが私の住む青森県を含むいわゆる地方です。その事業中止の埋め合わせをする仕組みは地方交付税にはありません。これから新たな配分方法を考えるのでしょうか。また地方が自由に使える財源を移すといっても、そのままでは納税力に乏しい所では焼け石に水、豊かな所とますます地域間格差が広がります。また地方の基幹産業である農業支援、その中核である農家への戸別補償についても、所得補障なのか生産費補償なのかで農家にとっては大違いですが、現場には明白に伝わっていませんし、補償対象はコメで野菜や果物などが含まれていないことも同様です。

こうした、細部を煮詰めていない、あるいはあえて触れないとしか思えない新政権の政策は、地方の現場を知る者、担当する者にとっては対応に困惑することだらけだと思えるのです。

古典的な政治テクニックなのかもしれませんが、私にはこうした大きくぶち上げておいて後で値切る結果になるとしか思えない政治手法が良いとは思えません。為政者として誠実さや謙虚さに欠ける気がするからです。もっとも、今の日本に欠けている希望を国民に与え、その実現に友愛の精神で全力で努力するだけで他意はない、あるいは自民党にそう言う資格があるのか、との反論が聞こえてきそうですし、最終的には国民の評価がどうなるかです。ただ私には現状の民主党に、無恥ではないと思うが、無知か無責任ではとの批判はしたくなります。勿論私が不勉強で、思いもつかない妙手があるのかもしれませんが。(2009年10月17日記)

山崎 力