質問「地方公聴会公述人にお聞きしたい

(平成11年8月5日参議院国旗及び国歌に関する特別委員会会議録より抜粋)


(前略)
○山崎力君 山崎でございます。参議院の会でやっております。
  まず、大津公述人にお伺いしたいのですが、おっしゃっている思いはよくわかるんですが、それが今の国旗・国歌の法制化の問題とどう結びつくのかというところがいま一つ見えてこない。もし本当にそのことをやるのであれば、戦争に負けたときといいますか、今、日本という国の名前も変えた方がいいのではないかと私は思うんです。それを今なぜ国旗・国歌ということでやっているのか。
  既に御承知のとおり、今この問題が出てきたのは、国内においてその国旗・国歌というもの、特に高校の先生が自殺された。これは、もう何年も前にもこの問題で自殺されている人はいるわけですよ、中学校の校長先生でも。一人二人じゃないというふうに聞いておりますが、それはともかくといたしまして、そういうところの一つ一つのいろいろな流れの中でこの問題が出てきている。関係者では、もう戦後一貫してこの問題というのは大きな問題であった。それが今ようやく政治の場においてこういうふうな形で、あることをきっかけに出てきた。
  そこのところと、先生の、そういうふうな対外的な問題を考えてこの問題をというところの結びつきがいま一つ私にはわからないんですが、その点、端的にお答え願えればと思うんです。

○公述人(大津健一君) 私は、ここへ来るときに汽車の中で新聞を読んでいまして、これはきょうの朝日新聞の「声」欄の投書欄に載っているある五十一歳の横浜市の主婦の方の投書です。その中に、「人間として、教育者として歌いたくない歌が「君が代」である。」ということをおっしゃっています。それは、過去の歴史を考えながらそういうふうにおっしゃっております。キリスト教がつくりました資料の中にも、「日章旗は進む・万歳 今ぞ武漢陥落」という、そういうことがありまて、過去の歴史の、特にアジアの侵略、韓国への植民地支配、台湾への植民地支配の一番中心にいつも日の丸が掲げられておりました。そして、韓国の人たちやら台湾の人たちに君が代を斉唱させておりました。
  過去の歴史をきちっと私たちが清算していない、そのことに対してきちっと責任をとっていないこと、ただそのことを切り離して、それはもう過去のことだからということではありませんで、やはりその関係の中でもこのことを考えていかない限り、私はこの日の丸・君が代を国旗・国歌とするという、単に国内の中でそういう意見が広くあるからという議論だけで押しとどめてしまえる問題ではない、そういうかかわりがあるということを申し上げたいというふうに思いました。
○山崎力君 そうしますと、大津さんの考え方からいくと、今、日本には国旗も国歌もない状態であるというふうにお考えなんでしょうか。
○公述人(大津健一君) 私はそういうふうに考えております。
○山崎力君 確かにそういう考え方もあるなというふうに思いますが、国際制度の中で、それが国際的に考えて、そういうふうな状態を放置してきた、あるいはそういうような考え方の方が少ないからあれだったのかもしれないですけれども、そことどうも国際社会というのが私は結びつかない。
  それで、もう一つ文章で気になったのは、香港におられて随分日本の植民地その他のことをやっていらしたということなんですが、それと同時に、あの当時は、香港はユニオンジャックがはためいていたわけでイギリスの植民地だったわけです。それで、信仰のことは申し上げられませんが、イギリスが世界に植民地をしてどれだけの人を殺し、土地を奪い、利益を上げてきたか。そして、ついこの間、中国本土にイギリスの香港が返還されたわけですが、そのときに謝罪があったのか、補償があったのか。それがなかったというのは報道で聞いております。そういったことに対してのお考えというのはどうなんでしょうか。
  もう一つありていに言えば、キリスト教が今まで人を救ってきたのと同様に、十字架を掲げて何人の人たちを殺し、土地を奪い、財宝を奪ってきたのか。それで、その辺の総括を全部なさってあの十字架を拝んでいられるんだろうかというふうな気もするわけです。
  その辺について、端的にお答え願えるならばお答えいただきたいと思います。

○公述人(大津健一君) キリスト教がやってきたことに対しては深い反省を持っております。深い罪の悔い改めを持って今ここに立っております。
  それは、日本のキリスト者として、世界のキリスト教が犯した罪については、私たち日本におる者として、やはり単に海外のキリスト教が犯した罪という形だけではありませんで、私たち日本のキリスト者が同じように犯した罪であるというように考えております。
  それから、今言われました、私、香港に長くいたよりも、シンガポールとかタイとか、アジアの各国を回るのが仕事でしたから、香港について僕ははっきり言えませんが、ビルマでの経験で、ビルマも同じようにイギリスの植民地でした。でも、日本の軍事政権がある一時期ありました。ビルマの人にお聞きになったらよくわかると思うんですけれども、ビルマの人はこういうふうに言いました。
  戦争中にイギリスは何をしたか、日本の軍隊は何をしたか、そのことをビルマの人は言われます。イギリスは、植民地支配をいたしましたが、学校をつくり病院をつくり道路をつくった。日本の軍隊はビルマに対して何をしたか、何もしなかったじゃないか、いや、むしろビルマの人たちに対してもっと残虐な行為をしたではないか、そういうふうに言われます。これは、アウン・サン・スー・チーさんの言葉を皆さんお聞きになってもそうですけれども、何かしてくれるよりも何もしてくれない方がいいというふうにおっしゃる。その日本のあり方をやはり考えてみる必要があると思います。
  以上です。
○山崎力君 ビルマのことは私もいろいろ話を聞いているんで議論はしたくないんですが、私は、植民地にしたということと戦地でそこで何をしたというのは、これは全然話が違うことで、そういうことを言えば、我々が戦争を現地では現実にやっていない朝鮮半島の人たちが我々に対してどういう気持ちを持っているかということを考えれば、おのずと今の議論というのはないと思うんですが、それはそれとして、ずっと日本国というのは国旗も国歌もなかった国だということの御主張だということはわかりました。
  ただ、私は、一時キリスト教の教育を幼少時に受けた者として、キリスト教の十字架にはこういう血塗られた歴史があるんだ、それをわかった上でキリスト教のシンボルとして教会の十字架を拝めというか、そこのところに祈りをささげなさいという教育をどこのミッションスクールでもしているとは思えないということだけ指摘させていただきたいと思います。
  それでもう一つ、今度は富樫公述人にお伺いしたいんですが、教育の問題はしたくないんですけれども、日の丸のところからいけばやっぱり一つの問題点として出てくるんですが、やはり一番違うのかなと思うのは、考え方です。
  学校教育にはいかなる強制もなじまないと平気でおっしゃるわけです。僕は、学校教育、特に公教育というのは強制以外の何物でもないと。ただ、それがいかに合理性を持つか否か。その合理性というのは、長い間の、西欧も含め、ほぼ確立されてきた。もちろん、それが因習的な強制力になっている部分もあろうかと思うんですが、例えば朝、定時に授業を始める、それまでに登校しなさい、これは子供にとっては強制以外の何物でもないです。一緒の時間で今度は算数をやりましょう、国語をやりましょう、強制以外の何物でもないです。
  僕は、そういったことをわかった上で、過度の拘束とか何かというものをやるということが果たして合理的なものなんだろうかどうなんだろうかと。それは、専門家の方あるいは父兄の方々、そういったことがいろいろあると思うんですが、先ほどもおっしゃられたように、日の丸をそれぞれの人たちが、地域の人たちが賛成、反対で来て先生方は悩まれると言ったんですが、それはもう当然のことでして、親のいろいろな要望がある、それをどうやって受け入れるか、それをどうやって子供たちによかれと思って学校運営をしていくかということを恐れる教師は、私は失格だと思うんです。という感覚から見て、この問題というものの考え方の前提がどうも違っているんじゃないかなと。
  と申しますのは、今度の国旗・国歌というのは、私は、社会が、国家と言っていいかもしれません、「この国のかたち」、すなわち日本国というものをどういうふうに子供たちに、次の世代に教えていくか、その基礎知識を与えるのがスタートの教育だと私は思うわけです。その教育の結果悪いと思えば、今の制度でいえば選挙で政権がかわり、そういった中での変化が出てくるでしょうし、あるいはもっと過激なことを考える人たちも我々の世代にはいたわけです。
  そういった点から考えてみまして、そこのところを、要するに学校教育において、国家であるとか、あるいはそのシンボルである国旗であるとか、あるいは歌である国歌というものをどのように位置づけて、どのように歌うか、掲揚するか。そういったものは入学式とか卒業式の式典のところにふさわしいものであるのか、ふさわしいものでないのか。この辺を、現場サイドでそれぞれがそこの力関係でやるよりは、ある程度国の制度としてやった方がいいのではないか。
  そこのところの校長が太っ腹な人なのか小心な人なのか、あるいは突き上げる教職員の人が先鋭なのかそれともまろやかな人なのかで、その学校、学校でその問題に対する対応策が違ってくるという現状を、やっぱりそこを改めようというのが今回の国旗・国歌法の成立させようという提案者の意思だと私は受けとめているわけです。
  だから、逆に言えば、非常に私個人の感覚からすると違うんだけれども、政権がかわって法律を変えれば、あるいは学習指導要領を変えることによって、これは一遍に変化するわけです、全国一律で。そういう制度というのが近代の法制度のもとのこういったものではないかなと、好き嫌いは別として、そういうふうに受けとめているんですが、富樫公述人、こういった考え方というのはいかがお考えでしょうか。

○公述人(富樫昌良君) 非常に大きな御質問なんですが、非常に失礼な言い方をさせていただきますと、学校教育に対する皆さん方の、皆さん方というのは、政府だとか、あるいは行政の中には、その時と場合によって極めて私は無責任な相反することを求めるということが往々にしてあるんですね。
  例えば、今、日本の子供たちは自分の意見を主張しない、だからディベートが必要だということが一方で出てきます。これは若い教師方に対してもそういう意見がよく出てくることがあります。もう一方では、勝手気ままで一貫したものがないと。今言われたように、それぞれのところでばらばらに考えるよりは国が決めた方がいいだろうというような物の考え方ですね。
  それぞれが率直に議論をし合って時間をかけて結論を導き出していく方法を今大事にしようとするときに、ある部分については、それでは大変だから国が決めようということは、私は極めて矛盾のある考え方なんだろうと一つ思います。
  それから、政権交代によって法律を変えればいいと。確かに、現在の国会のルールあるいは国政上のルールはそういうことができます。だけれども、もう一方で、政府あるいは文部省、中教審は不易なものをどれだけ大事に受け継いでいくのかということも強調されます。
  そうすると、私たちが学校現場で子供たちに指導するのは、はるか昔から先人の皆さん方がつくり出してきた科学であり文化であり芸術であり、そういうものを子供たちにどれだけ日常の生活に生かせるように伝え、人間としての基礎、基本的な学力として身につけさせるかということで努力をするわけですね。これは、学問の中身というのは、どういう政権がつこうとも基本的に変わるものではないはずだと思います。
  あるいは、国旗・国歌というものについても、私は、現在の日の丸・君が代をどういうふうに評価するか、支持する自由もあるし、それに従わない自由も私はあると、それが憲法上の原則だというふうに思っております。
  しかし、日の丸や君が代を国旗あるいは国歌として法制化する場合には、少なくとも政権がかわるたびにその理解が変わる、解釈が変わる、その都度子供たちが混乱に陥るというような対応では、これは正しくないだろうというふうに思います。
  ですから、今必要なことは、十分に時間をかけ、本当に国民大多数が納得できる手順と幅広い意見の集約によって、たえ得る国旗あるいは国歌をつくるための取り組みをしていくということではないでしょうか。
  冒頭私申し上げましたように、その結果、手続上もだれもが納得できるような方向で決まるのであれば、それはそれでやむを得ないだろうというふうに思いますが、政権交代で幾らでも変えられるという物の考え方には、それは安易な現在の法制化をするための口実にしか私は感じないんですが、そういう言い方では失礼でしょうか。
(後略)