意見表明「対イスラム外交について

(平成14年5月22日参議院国際問題に関する調査会会議録より抜粋)


(前略)
○山崎力君 私自身、ちょっと観点を変えてお話ししたいと思っております。
  私自身、イスラムということでちょっとかじってみたんですが、本当に難しいことだなというふうに思っております。と申しますのは、やはり我々、善かれあしかれ、明治以降の近代教育の中で、宗教というものが、これは後れたとは言いませんけれども、個人というものの中の問題であって、社会全体を動かす問題ではないというふうな近代西欧の価値観というものを知らず知らずのうちに刷り込まれている。
  ある人に言わせれば、日本人というのはそこから離れた希有な民族であって、そこの大きなスタートは信長の比叡山焼き打ちにあったというような意見もあるわけですけれども、そういったところで振り返ってみて、我々、先ほどの外交の話もありましたけれども、日本の理念というのは何なんだと。体系化された、理論化された理念が我が日本にあるのだろうかと。そのことがはっきりしない以上、どこと付き合うにしても、やすきに流れるというと言葉は悪いんですが、今で言えば対米追従だという形になってしまう。それがいい悪いの議論は当然出てくるんだけれども、それでは、変えるとしても理念がないまま変わらざるを得ない。そこのところをどうするかということが、このイスラムの問題、付き合う場合、我々が根源的に考えなきゃいかぬ問題じゃないのかなと。
  そして、いろいろ勉強させていただいたんですが、そこのところまでなかなか参考人の方々もおっしゃっていただけなかったという気がいたしております。
  と申しますのも、私どもが今当たり前の価値観として見ている近代国家像、特に民主主義であるとか、その前提の法治主義であるとかというものに対して、イスラム世界というものは考え方が、いい悪いは別として、がらっと違っている。
  法とは何か。これはすなわちアラーの神の教えをそのまま実行するという考え方そのままで、始まって以来千年以上にわたって彼らの法体系というものは変わっていないわけですし、そういった中で彼らが歴史的に見れば栄耀、栄えていた時代、これはもう西欧文明に対して優越的なものを持っていた時代というのは期間的に見ればかなり長いわけです。
  それがなぜ崩れたか。それはキリスト教から出てきた近代の科学であり、もっと言えば、それの前提となった資本主義、マックス・ウェーバーの言うプロテスタンティズムと資本主義の精神という分析からきた、資本主義というものが西欧の近代化をもたらし、思想の発展をもたらし、そして、その結果としてアラブ、イスラム世界を凌駕して、一時的には占領したといいますか、植民地化したと。そして、その流れの中で今の近代国家、あるいは近代的な国連を含めた組織化というものがなされている。大部分はキリスト教です。
  そういったものに対して、トルコの革命以降、近代化しようとしてもなかなかイスラム社会においては西欧に追い付けないということに対するフラストレーション、そしてそれが今いろいろな科学技術の進展によって世界的な流れの中で出てきていると。ますますその潮流が経済面も含めて出てきている。
  それに対する考え方。どうして我々はこう取り残されなければいけないのか。そのときに、もう一度自分たちの生活規範であり社会規範であるイスラムの原理に戻って、そしてそういった世界に対して対抗しようではないかというのはある意味で当然な帰結だと思います。そして、彼らが行っていることは、正に一つの西欧の身勝手の象徴であるイスラエルとパレスチナの問題を問題とした、あるいはサウジアラビアのアメリカ駐留を問題とした考え方がこういったテロという形で噴き出してきた。
  そういうふうに考えれば、これを日本がバックボーンのないまま介入していってお金を上げて、かわいそうかわいそう、それじゃお金を上げましょうという以上に我々の外交として何ができるんだろうという気がしてまいりまして、正直言ってこの問題に関して私自身は陰々滅々たる心境にございます。その辺についていろいろ考え方あるかとも思いますが、少なくとも近代資本主義、資本を基にした産業、経済、そういったものにイスラムがどう対応していくのかということを我々が理解しない限りこの問題の根本解決はないのかなと、パレスチナ問題も当然なんですが、思っております。
  そういった意味で、イスラムを理解するということから出てきたのは、我々は、ユダヤ教はもちろん、キリスト教の根幹的なかなり血に塗られた神の考え方というものに対してどこまで理解していたのかなと。キリストの教会は身の回りにたくさんあるんだけれども、あの人たちの信仰の中にどこまでその難しさといいますか、かなり危険な、我々の感覚からいうと危険な神という、キリスト教の神というものも本当に理解していたのかなという気がしているところでございます。
  以上。

(中略)
○山崎力君 先ほど入澤先生の話にもあったんで、私も同感するところがあるんですが、どうしても議論が煮詰まらない。これは世界各国でも煮詰まらないのかもしらぬですが、宗教というか人間の規範ですね、生きる価値観の集大成と言っていいのかもしれませんが、そこのところで、我々は何か日本人というものの価値観というものが分かったようなつもりになって、それで世界を見、付き合っている。それが以心伝心で分かる国内のうちではいいんですが、あるいは単に商売といいますか、物のやり取りでもうけたもうけない、そこの部分ではいいのかもしらぬですが。このイスラム社会というのは、その中でいえば、世界的な中でもキリスト教が近代化されて、ニーチェに言わせれば、神は死んだ、人間が殺したという以降のキリスト教社会でそれを推し量っている。
  そういうときに、もう千年も変わらない価値観の下に現在もなお生活し、それを規範としているイスラムの人たちとどう付き合うのかということは、非常にそういった意味では、自分たちの規範がどこにあるのかということを再確認してからでないといかぬ。ところが、御承知のとおり、宗教教育というものは公教育から外すべきであると、宗教は公のところから離れたところにおらなきゃいかぬという、これは憲法上の我々の要請が現実にあるわけで、その中で、外交も含めていろいろ言われているんだけれども。
  本当に、それじゃ、外交、国益というものもある意味では一つの価値観、理念から出てきたものであるわけで、その国益を代表する外交にどこにバックボーンを持たせてやるのかということを我々も含め国民がどこまで期待していたかというと、極めて私に言わせれば疑問だし、そして特にイスラムの価値観からいけば、富んだ者が喜捨するのは当たり前だと。そうすれば、いろいろなことでお金をやったのにもかかわらず、援助したにもかかわらず、我々の期待に沿わない使い方をした、あるいは感謝の念が出てこない、そういったことに対して違和感を持つのは、彼らの価値観からすれば、これは神に対する、何というんでしょう、不遜な態度である、むしろ不遜な態度であると。先ほど森元さんも価値観が違うとおっしゃっていたけれども、その辺のところをこれを機会に議論し合わないと、堂々巡りになってしまうんじゃないのかなという気がいたします。
  最後にあえて言えば、日本の我々が価値観として共通で持っていると思われる、いろんなものの基盤になっている命より大切なものはない、人の命が一番大事だという価値観が、ある意味においては、彼らにとってみれば命より大切なものがあるわけです。それは自分たちの信仰であり、神に対する自分たちの契約だということに対してどう付き合うのかと、そういう人たちにどう付き合うのかということを考えないと、私は、非常に水ぶっ掛けて恐縮な言い方だけれども、独自の外交、対イスラムの独自の外交とか何らかの役割をとか言ったところで、私からすれば、かえって残るのは、何というんでしょう、未達成感というか消化し切れない、かえって悪い印象が残るんじゃないのかな、むしろ本当のできる範囲でのことをもじもじとというか、そういった形でやるのが限界じゃないのかなという気が、あえてこの際申し上げたいなと思っております。反論は覚悟の上で。

(後略)