感想「集団的自衛権論議を聞いて

(平成16年2月25日参議院憲法調査会会議録より抜粋)


(前略)
○山崎力君 今、三参考人から主に平和、安全保障、そういった中での憲法との関連のお話ございましたけれども、私自身の個人的な感想というか、感覚でまず言わせていただければ、特に集団的自衛権の問題というのはある種の徒労感を伴う議論でございました。なぜならば、正に世間に評判の悪い、神学論争と言われている、有すれども行使できぬ権利を有すると言えるのかという、この問題に収れんされると思うからであります。そしてそれは、すなわち憲法第九条における自然権の自衛権、自然権的たる自衛権をどう担保するのかという、自衛隊違憲・合憲論の根本にかかわることでありますし、戦後、新制度になってから一貫して憲法学界においてこの問題を掘り下げた議論というのは、少なくても一般の我々には目に届かないところでしか行われてこなかった。裁判で出てきたところも、群民蜂起であるとか、いわゆる軍隊でないものが自衛権の担保装置として一流の裁判官、学者から例示されるという、そういうことであったわけです。
  そのことをもう少しはっきりすべきだという意見と同時に、それをやってしまうと日本は再び危険な道に陥るという考え方の違い、そして、それに伴うアメリカとの付き合い方をどうするのか、あるいは、もうなくなりましたけれども、むしろソ連邦との付き合い、社会主義国家群としての付き合いに親近感を持った議論というのが繰り広げられてきたということは、皆様方、客観的事実としてお認め願えるんじゃないかと思います。
  しかし、そこで今、私自身考えるところ、それでいいのかと。だから、それでいいというのは、そういったことだから、もう既に自衛権を持って、集団的自衛権もそのまま持っていいのかどうか、そのままそれ行けどんどんでいいのかという議論になれば、そこは国民も大勢の方が一抹どころかかなりの不安感を持って見ていることもあるであろう。それは法律的な議論にいろいろあります。
  ただ、時間の関係でそこのところを省いて言えば、少なくても、戦前における我が忠勇なる臣民の聖戦と呼ばれた行為が、単に負けたというだけではなくて、諸外国の、国際社会の断罪を我々は受けて、そしてそれを、その諸外国のみならず、日本国民が振り返ってみて、日本の行為というものを、少なくても責任者たる軍部が説明できる行為をしなかったと、できなかったということもまた事実であります。そのところのことをどう考えるかという、戦後のスタートに当たって、我々が一億総ざんげという言葉で済ませてしまって、本格的な総括をしてこなかったということがここに至っている大きな原因ではないかと私自身思っているわけでございます。
  そしてそれは、今私が個人的な発想で言えば、自国民、いわゆる我が日本国民が、こういったいわゆる戦争を考えてといいますか、所期の目的とした自衛力、軍隊というものを持ち得る近代的、民主的国民かどうかというその判断を自分たち自身にもたらされているのではないか。それができないという不安感を持つ人たちがいろいろな理由を付けて、私は、その方向に行くのを何とか歯止めを掛けようとしているのではないかというふうに思えて致し方ないのでございます。
  ただ、それについて言えば、私自身の中にも若干の不安があると。これを克服するにはどうしたらいいかというのが一番の、私個人にとっても、恐らく大勢の方々にとっても一番の問題だろうと思います。国際社会並みの西欧的な、特にアメリカ的な割り切り方でいいんだろうかと、これは経済の問題も含めてですが、軍事力の行使のアメリカのやり方を見て、ちょっとね、付いていけるかねという議論というのは当然出てくるし、彼らの背景にある、そしてその対戦、反体制側といいますか、アメリカと対峙している方たちも言っていることはすなわち大義という言葉であり、そこの裏付けになるのは原理主義という表現で行われている言葉であります。
  我々にそれがあればそれなりの判断は付くんでありましょう。ところが、その戦争における、天皇制における大義を失った我々は、民主主義制度というような大義、非常にあやふやな大義を掲げていたけれども、それは一本化した大義ではなかった。それを、改めて自分たちが憲法の中にどう織り込むかということが私はこの問題も含めた根本的な問題だと思います。憲法に我々日本国民の大義を含めるのか、それとも、大義というものはむしろ危険なものであるからして、それを薄めた形で何らかの形の成文を得るのか、両方とも一長一短だと思います。その辺のところを今考えさせられたというのが今回の集団的自衛権を含めての憲法論議だったというふうに私は今の時点で言葉を選べば総括したいというふうに思っております。
  以上であります。

(後略)