質問「教育問題、環境問題について

(平成17年3月15日参議院予算委員会公聴会会議録より抜粋)


(前略)
○山崎力君 自由民主党の山崎でございます。
  両先生にはいいお話をお聞かせ願ったと思っておりますが、一方で、私どもの立場とすれば予算という部分もございますが、ある意味で立法府という関係、あるいは国民の負託を受けて選挙を受けてこういう立場にいるということもございますので、そういった意味で御質問させていただきたいと思います。
  両先生のお話がちょっとずれておると言うと、分野が違っておりますので、まず最初に藤原先生の方の教育の方から始めさせていただきたいと思います。
  非常にユニークなといいますか、今、今後はユニークでなくなるのかもしれませんが、現時点でいえばユニークな、そして今二年目ということですので、成果というのはあと何年かたたなければ分からないと思いますけれども、今の教育において、まあ何というんでしょうか、ギャップがあるといいますか、そこに落ち込んでいるところを引き上げて、現代的な中に役立つ教育にしたいという熱意はよく分かりました。
  ただ、そこのところで今日の話に抜けていた点といいますか、そこからまずお話伺いたいと思うんですが、先生は公、公立中学校というところでのお話と言いました。今、学校教育の中で一般に言われているのは学力の低下、それから何というんですか、人間性というんでしょうかね、徳育という言葉があるんですが、そういった物の感じ方に対する問題点の指摘というのが、まあ大きく言うと二つくらいあろうかと思うんですが、その点での問題というのは、すべてと言っていいほど公立校なんですね。
  ということは、私立の学校の教育と公立の学校の教育というものが、どこが違うんだというのもやっぱり大きなポイントではなかろうかというふうに思うんですが、そこまで先生の今の時点での判断というのがどうなっているかということを分かりませんけれども、一応まず素人的に言うと、そこのところが教えていただきたいと、まず最初にお話をお聞かせ願いたいと思います。

○公述人(藤原和博君) まず、学力の問題から先に答えてよろしいでしょうか。
  今、日本じゅうで、さきのIEAの調査それからPISA調査ですね、OECDの、両方ごっちゃにした議論が行われていまして、その両方のデータが下がったということで、単純に狭義の学力が下がったという形で言われているんですが、私はこれ、二つの問題をはらんでいると思っているんです。
  IEAの調査で測っているのは、言わば私が情報処理力というふうに名付ける分野の力で、記憶の中に正解をたくさん詰め込んでおいてその正解を出すというのですね。第一問目で出ていたのが、十分の七は〇・〇七ですか〇・七ですかみたいな話です。それから、記述式で出ていましたのも、例えば固体と液体の違いを一つ述べよというような、知らなければできない問題です。
  これについては、主に私は小学校の問題だと考えていますけれども、小学校で反復で、反復できちっとその力を付けなきゃならない読み書き計算を中心としたそういう知識教育については、確かに反復の時間が取れないという問題があるようでございますので、ここは公立校の問題点の一つだと思っています。
  ただ、中学校についてはむしろPISA調査の方をよく見なければいけないんですけれども、日本の子が、十五歳の子が一番答えられなかったのは、先生も十分御存じだと思うんですが、例えば壁に落書きがかかれている、これが犯罪なのか芸術なのかというその二つの意見があって、この二つの意見のうち、あなたの意見はどちらに近いですか、その理由を述べよという、こういう試験なんですね。これに日本の子はほとんど答えられない。要するに、全然一行も書いてないみたいのが多いわけです。しかも、この問題は二〇〇〇年と二〇〇三年の両方同じ問題が出されました。
  何を言いたいかといいますと、ここで試されているのは情報編集力というふうに私が呼んでいる問題で、単純に公立の学校の例えば授業時間を増して、国語の時間を増したり漢字の練習をたくさんしても付かない力なんです。
  ですから、これは、先ほど私が申し上げたような、よのなか科のような、一つのテーマをいろんな形でいろんな視点から批判的に見て、自分の意見を形成してそれを表現するという、そういう力を付けなければいけませんので、小学校の問題と中学校の問題は分離していただきたいというのが学力に関する私の考え方です。
  公立校と私立校というふうに先ほどおっしゃいましたけれども、中学以降の私立については大体ことごとく時間の問題は非常にあると思います。それからもう一つは、下を偏差値で切っていますので非常に同質な集団を教育ができるということ、その効率が非常に高いという、そういうことだと思います。
  公立校の先生方は、非常に生徒の能力がいろいろばらばらであるということで、教授法をいろいろ、もちろん悩んでいるわけでございますけれども、しかし人間として育つという、先ほどの先生の二つ目の問題、人間性の問題を併せて考えますと、ばらばらのいろんな価値観を持った多様な人間、まあ裕福な子もいれば貧乏な子もいる、そういう中で、いろんな職業、親の職業もいろいろ雑多な中で育つということが、人間としての最終的な生きる力には私はそちらの方がつながるんじゃないかと見ておりますので、ただ単に授業の効率だけを問えば私立の勝ちだと思いますが、でも人間を人間として育てるという意味では、雑多ないろんな大人との関係、いろんな考え方を持った仲間との関係の中で自分を育てていくという公立にも十分に分があるというふうに考えております。その一つの答えが、先ほど言いましたような地域本部というものにもっともっと地域の雑多な大人が入ってきて、子供たちの前に姿を現して斜めの関係を結びながら育てることだと思っています。
  私は、心というのは、例えば思いやれと言って思いやりが育つとは思えないんです。それよりも、子供たちが雑多な関係の中で、自分で人間関係の中で見付けていったり発見していったり、どうしても心というのは人と人の間で育つものだと思うので、そういう交流を豊かにすることがすごく大事なことなんだなというふうに日々の教育活動の中では感じています。
  以上です。
○山崎力君 私見を言わない方がいいのかもしらぬですけれども、私個人に言わせれば、中学校の間に芸術論も犯罪論も法律の刑法も分からないで、それを聞く方が僕は教育的にはおかしいんじゃないかなと、教えているんならまた別ですけれども、そういう気がするんですが、それは今の話と別問題といたしまして。
  今先生のおっしゃられた、藤原公述人のおっしゃられた中で一つ考えなければいけないのは、小学校教育に問題がありというふうなところも今言われたような気がしております。これはある種、小中といいますけれども、義務教育でどこまで、何を義務教育で国民が次世代に望むかという議論で、それを制度化し、それを担保する予算を付けという我々からしますと、そこのところを一緒にどうしても考えざるを得ないというところございまして、その辺のところは今の意見を参考にしてどうしたらいいかなということを考えなくちゃいけない。
  それから、逆に、地域本部という考え方も、昔は何か自然にあったものが失われたからそれを何とか復活させようじゃないかというような意味合いで、地域性もあるだろうし、そこにアイデアとしての普遍性はあるのかもしれないけれども、実効としての普遍性がどうなのかなというのを聞いているところありまして、逆に言えば、先生のような経歴の人だからできて、公のずっと教育に携わった人がアイデアとして出てこないとすれば、またそっちも問題かなというふうな気もするんですが、まあこれは私の感想ですけれども。
  事実関係としてお伺いしたいのは、ちょっと今日の話とは関係ない、直接は今のお話と関係ないんですが、公立の中学ということで、生徒さん方の中で高校受験という、学校での教育の中での高校受験、これは教師の側からもありますけれども、生徒側から見てどの程度の今ウエートがあるというふうにお感じになっていらっしゃいますか。

○公述人(藤原和博君) どの程度のウエートというのは、高校を卒業して就職するということとですか。
○山崎力君 いえ、中学校、中学生としてです。
○公述人(藤原和博君) 中学生として高校を進路として考える。例えば、和田中の場合には一〇〇%そうなりますけれども、非常に大きいです。
  中学生は、皆さんにも息子、娘がいればお分かりになると思うんですが、十四、五歳、中学の二年ぐらいにすごく揺れる時代があります。思春期の第一期ですね。それからまた、十七、八でもう一回揺れるわけですけれども。そのときにいろんなことを迷います。それまで友達と一緒に育ってきて、大体みんな同じだと信じていたのが、いろんな能力の違いに気付きます。それからいろんな限界にも気付きます。いろんな失望もしていきます。たくさんたくさん失望もしていきます。そういう中で、十五歳ぐらいになりますと、昔であれば元服ですから少し大人になるわけですが、そのときに高校というものを見据えるということは、学校としては、例えば生活指導上の一つの柱にもなりますし、そこで生徒の生活習慣が一本筋が通るというようなこともあります。
  もし例えば、全く仮の話ですけれども、高校受験ということが全部なくて、どうにでもしてよいということになりますと、自分が大人として一皮むけていくときの一つの筋のようなものが見えるかどうかというのはちょっと自信がありません。進路はそういう意味ではすごく大事な要素だと思います。
○山崎力君 一般的な意味で、先生の学校の生徒さんとどこが普通のところと違うかというところをいくと、学校、高校受験というのは大きなファクターであるというのは変わりないと思うんです。そして、それが父兄の方々あるいは周辺の方々にとって学校の評価にもつながるし、生徒さん個人の評価にもつながるし、逆に言えば、先ほどおっしゃった先生の授業の評価にもつながってくる部分がある。その辺が非常に悩ましいところではないかということで申し上げたんですが、時間の関係もあるので。
  次に、その親なんですけどね、結局、親の顔が見たいという説が、説というか話が、例え話といいますか、言い回しが昔からあったんですが、今のいろいろな言葉を見て、その言い回しがもう古くて使えなくなっているんではないかなという、今はやりのを言うと親の親の顔が見たいという言い方になっているんではないかという話に、今聞くわけです。
  そういった意味で、私個人の話からすれば、今まで親子の関係であうんの呼吸でいい悪いというのがあったのが、それが伝わらなくなった。例えば、学校の先生の言うことを聞けと言う親が普通だったわけです、学校においては。ところが、今学校で子供が問題になったときに、よくしかってくれたとかよく指導してくれたとかと言う親もいる一方で、何を私の大事な子供にやってくれたんだと言う親も増えてきている。
  それから、その似たような話で、今一番の私の問題は、いろんな社会現象の根底にあるのはそこから引いてきた問題だと思うんですけれども、自分さえよければ、あるいは法律に違反していないということであるならば何をやってもいいんだという考え方、価値観ですね、ここのところが今一番僕は世の中をいろいろな面で複雑にしている部分あろうと思うんですが、その辺についての先生のお考え方を伺えたらと思います。

○公述人(藤原和博君) 基本的に今先生が御指摘になった自分の気持ち至上主義といいますか、これは、いつのころからか分かりませんが、親子が友達みたいになっちゃって、最近、心理学の世界で非常に話題になっているんですが、反抗期がなくなったというんですね。特に中学の時期、反抗期というのはすごく大事な時期だと思うんです。親が何となくうさん臭くなったり煙たくなって、それを越えていこうとする。あるいは、できれば出たいと、家を。そういうのですね。そういうものがなくなって、友達家族しちゃっているもんですから、家族が、その家にいる人たちが友達だったら、こんなに居場所として楽なものはないと思うんです。だから、出ていこうという気もないだろうし、ちょっと外でチャレンジして傷付いたらすぐもうお友達のいるところに戻ってくるという、そういう子育て、お友達のような親子ですね、下手するとファーストネームで呼び合うという、そういうことは見受けられます。
  それよりもまた先生方が非常に厄介だなというふうに感じているのは、多分三割ぐらいの親だと思いますけれども、もう保護者会にもやっぱり来ないか来れない人がいます。うちの学校でも就学援助三人に一人ぐらいおります。杉並区では非常に高い方です。それから、ある学年では欠損家庭二割になっています。そうしますと、もう親が学習のフォローをし切れません。
  それから、学校用語では生活指導というふうに言いますけれども、例えばかかとを踏まないとかシャツを出さないとか、そういうおじぎ、おじぎや人の目を見て話を聞くとか、もうそういうところからの生活指導に先生方の三割ぐらいのパワーが割かれていることは恐らくどこの学校でもそうだと思いますし、荒れている学校ではこれが七割になってしまう。授業どころじゃないというような形になってしまうという。和田中学校は幸い落ち着いていますので、七割、八割授業に向かうことができていますけども、それでもこの生活指導というところで三割方の子が、これは生活指導が利いていない子、あるいは家庭でのフォローが利いていない子はそのまま学力が低いというようなことは相関がありますから、それを何とか支えるということが先生方の非常なエネルギーを割かれることになっています。そこは校長としても一番そのエネルギーを割くところです。
  ここがもし底割れしてしまいますと、特に数学、中学では数学と英語はいったん分からなくなったら、これはもう本当にヒンズー語の講義聞いているようなもんですから、もう全く分からなくなってしまいます。そうすると暴れ出したりすると思うんですね、自分に注目してほしいという、そういうことですから。なので、底割れしない努力というのが非常に大事になってきています。
○山崎力君 ありがとうございました。
  ちょっと時間割間違えて、池谷先生の方短くなったんですが、はしょりますが、簡単に、簡潔にお答え願えればと思います。
  お話伺ってて一々もっともだなと思いつつも、日本人にそういう感覚というのが薄かったと。どこから来たのかというそもそも論はこの際おくとしまして、一番の問題はまだまだ日本人というのは豊かさを求めているという部分があるのではないかということなんですね。都市政策、問題があった、しかり、あるいは自然保護に対しての意識がなかった、しかり、すべてしかりしかりしかりなんだけれども、答えとしてしかりと言えないと、そのとおりと言いにくいというのが一番のこの環境問題の問題点ではないだろうかと。突き詰めていくと、人類を、世界の環境問題を解決するのは人類の数を少なくすることだということにもなりかねない。幾ら環境が悪くなっても餓死者を出すよりはいいだろうと、貧乏臭くなるよりはいいだろうと。特に、先進国は余裕があるけれども、発展途上国はそんなこと言っている余裕はないというのが世界の現状だろうと思うんですが。
  先生のお話の中で私が感じるのは、個々の細かいテクニカルな部分は別として、私たちがどこまでこの環境保全といいますか、持続可能なということを受け入れられるものなのかどうなのかというところがまだ国民的な合意になっていないし、それに伴う立法作業というのもまだ遅々として進まない部分があると。環境税の問題というのも、この間私どもでも議論、内部的にいたしましたけれども、そこもまだ合意に至らない。なぜならば、何をやればCO2の排出がどれだけ減るというめどが付かないのに議論できるのかと、それができてからではないのかという議論で終わっております。
  そういった現状について、政治も含めてでございますけれども、その辺の国民の意識を含めた意味でのお考えをまず公述人からお伺いしたいと思います。

○公述人(池谷奉文君) 日本の経済は十数年前にバブルがはじけたわけでございますけれども、しかし行政の関係のバブルが今はじけつつあって、実は日本国民が最も今バブルの状態にいるんではないかという実感を持っています。したがって、国際的な約束が一向守れないという状態にあるわけでございますけれども、しかしこれは、それじゃどこからやるのかということになるんですが、やっぱり、基本的にはやはり政治家の方々のリーダーシップということが最も大切ではないかというふうに思うわけでございます。
  こういった持続可能な社会といいますのは、実は二つ要素がございまして、一つは土地利用として将来世代の基本的な自然生態系をどう守るかと、どこに守るかということをまず決めていくということが重要でございまして、基本的には自然生態系というものは土地利用できますから、土地を買わなきゃならない、また制度的に抑える必要がございます。その辺のことがほとんど日本では行われておりませんで、例えば自然環境を守るために予算としてどのくらい取っているのかというと、ほとんど取っていないわけでありまして、私どもの試算でいきますと、国の総予算の一〇%をもし将来世代のために投資していって、百年先にどうやら共存できる状態になるかなということでございまして、そこまで多くの自然を破壊してしまったということになります。それをどう取り戻していくのか、まさしくこれは政治の判断の問題ということになります。法律的にはそこそこの法律は日本はあるんです。あるんですが、それに対しての予算付けができていない、ここに問題があるわけです。まさしく政治家の方々の意識の問題、ここに最大の原因があろうと思います。
  それから、あと一つは、人間のそれぞれの、土地利用とは違った生き方の問題がございまして、まさしく現在、バブルでございまして、それをどう変えていくかということになります。残念ながら、日本ではそういったことに対して、意識的にこれから日本の経済は下げていくんだという議論が日本ではほとんどないわけですね。ここが問題でございまして、これから輸出入を、これから全く止めることもございませんが、減らしていくということが必要でございますし、大量生産を止めていくということが必要でございますが、それをしない限り環境問題は解決しないわけですね。
  当然、日本の経済は下がりますね。そういうことをきちっと国民に示す必要があるわけでございますが、まだ現在が景気が低迷で、これからもっと上げようという話があるんですね。そんなことはもう国際的にあるはずがないんでありまして、もはや日本人の豊かさを世界じゅうの人が享受したとすれば、地球は二・五個なきゃ足りないということはもう分かっている話でございまして、これから先進国の生活レベルは下げなきゃいけない、物質的にはですね。つまり、これから我々としては精神的な豊かさを求めて、物質的には質素な生活をしていく方向になりますから、そういったことをやはり国民にきちっと正直なところを訴えて日本の社会を変えていくという必要があろうと思っています。
○山崎力君 先ほども冒頭申し上げたんですけれども、おっしゃることはよく分かるんですけれども、それじゃ、みんなで貧乏しようよということで我々選挙戦えるかという基本的な問題がございまして、こういう、これが一人の独裁者、先覚者であればできると思うんですが、そこのところを先生にもお考え願いたいのは、先ほど来ちょっと話出ましたけれども、年間三万五千人死んでいると、自ら死んでいると。それで、生活が困っているという人に対して、あるいは仕事がなくなってつぶれるかもしらぬという人に対して、特に地方の人たちに対して、仕事がないよと、そういったときにどうするんだということに対する回答がないまんまいけば、やはりこの環境問題というのは、日本でもそうだったように、ある程度稼ぎがあって余裕が出てきたという状況でやればいいんじゃないという、そういう一般の人たちの気持ちというのが、私にはそう感じる部分があるわけで、同僚議員のかなりの部分もそういうふうに思っている方いらっしゃると思うんですよ。その辺のところを単に先覚者的に、このままじゃやってられないというのはみんな分かっているかもしれません、だけれども自分が、あるいは自分の子供くらいのときまでは、あるいはひょっとしたら、年齢によっては孫くらいが生きている間は何とかなるんじゃないという人が大部分と私は思っております。
  その辺のときに、将来の孫子の世代以降のために、今自分たちが我慢始めようという人たちが私は今の日本の教育とかすべての中でどこまでいるかというのは非常に悲観的なんですが、その辺のところの先生のお考えをいただいて私の時間終わりと思いますので、簡潔によろしくお願いしたいと思います。

○公述人(池谷奉文君) 私は、現在三万五千人の自殺がございますけれども、私はあと数年でもっと増えるだろうと思っています。それは、日本の経済がこれから下がってきますよということを国民に言っておりませんから。しかし、社会、世界の動きからしまして当然それは下がる方向に行きますので、逆の方向に投資していますから当然格差が大きくなります。このことが大変大きな問題を起こすだろうというふうに思います。
  まさしく、そこで言いました石油の、我々の文明を支えている石油というものの需給バランスがあと数年で逆転するわけですから、大問題が起こる。実はそこが日本の出発点でございまして、大きな社会変革がこれからもう必然的に起こる。そういうことをこれから極力ショックを少なくするのが技術でございまして、今までの二十世紀の延長線上はいかに豊かにするのが技術だったんですが、全く違う技術が要求されているわけでございまして、そういった議論をやはりこの国会の中できちっとしてもらうということを、それを国民に見せることが最も重要だというふうに思っております。
○山崎力君 どうもありがとうございました。
(後略)